るーむ四季

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おわりにしよう


夜のフェジテ城の廊下を、ハウゼンとミネルヴァは歩いていた。
ハウゼンの大きな手がミネルヴァの幼い手をくるむようにして、二人は手を繋いでいる。こうしてミネルヴァと手を繋ぐのはハウゼンにとって初めての経験だったが、遠い昔、かつての主人を想起するミネルヴァの手は、どこか懐かしいもののように感じられた。
かつての主人――ベネディクタ・フェジテと呼ばれる彼女。
幼少期の頃の彼女に願われて、ハウゼンは幾度となくベネディクタの手を取ってきた。ベネディクタが望む限り、何度でも。ベネディクタの成長に伴って手を握る機会もなくなったが、大人になった彼女の手を握ったこともある。父と母を喪ったベネディクタを支えるためだった。
そして今、ハウゼンはミネルヴァを支えるためにその手を取っている。
ベネディクタにとってもミネルヴァにとっても、両親の訃報は重すぎるものだった。
ハウゼンが視線を落とすと、ミネルヴァの潤んだ瞳の縁が赤く腫れているのが見えた。思い付く慰めの言葉はとうに言ってしまっていたから、ハウゼンは黙ってミネルヴァの手を引き、彼女を寝室まで送り届けることにした。
「着いたぞ、ミネルヴァ」
「……」
「ミネルヴァ?」
寝室の前に到着しても、ミネルヴァはハウゼンに別れを告げようとはしなかった。うつむくミネルヴァがどんな表情をしているのかは分からない。ハウゼンは巨体を屈ませてミネルヴァと目線の高さを合わせて、ようやくミネルヴァが迷っていることを知った。
整えられた眉を下げ、口をきつくむすんだミネルヴァは、まるで目の前に選ぶべき何かがあるかのように視線をさまよわせている。何を迷っているのかハウゼンが知る術はなかったが、ミネルヴァがその小さな頭の中で何らかの考えを巡らせていることが分かれば充分だった。ハウゼンはミネルヴァの考えを邪魔してしまわないように注意して立ち上がり、ミネルヴァの決断を待った。
多くの意味において、今のミネルヴァには時間が必要だった。両親を亡くしたことについて折り合いをつけなければならないし、女王の座に就くための多くの手続きも控えている。これらを、特に両親の死と折り合いをつけることを終えなければ、ミネルヴァが前に進むことは出来ない――ハウゼンはそんな確信を持っていた。
前に進めず、失意の中で命を失った人を知っていたからだ。
ベネディクタは、最期まで両親との離別を受け容れることが出来なかった。両親亡き後も彼らの愛を求め、多くの栄誉を得ながらも失意の中で命を絶った。そんなベネディクタの亡骸の様子を思い出すと、今でもハウゼンは目の前が真っ黒に塗り潰されたような心持ちになる。
あんな思いは二度としたくないし、誰にもして欲しくはない。その思いが、こうしてミネルヴァの傍に寄り添うことに繋がっていた。
「……ハウゼン」
ようやくミネルヴァは顔を上げ、口を開いた。何に緊張しているのか、語尾が微かに震えている。ハウゼンは言葉を返さずにミネルヴァの続きを待ち、ややあってミネルヴァは言った。
「今夜は、ずっと一緒にいて欲しいの」
幼い不安に彩られた声。ハウゼンはミネルヴァを安心させるようにミネルヴァの頭をぽんぽんと撫で、勿論だ、と返した。
「ずっと一緒にいよう。君が望む限り、私は君の隣にいる」
緑の瞳が、ハウゼンの顔を捉える。ミネルヴァの瞳の中で揺らめく自分の姿をハウゼンが見つめていると、ミネルヴァは静かに微笑んだ。
「ありがとう」
薄桃色の唇が動くのを見ながら、ハウゼンは思う。
目の前の少女にしていることをベネディクタにも出来たなら、ベネディクタはあんな結末を迎えずに済んだのだろうか、と。

「着替えるから、少し待っていてくれ」
メイドに持って来させた寝間着を手にしたハウゼンに言われ、ミネルヴァは頷いてベッドの端に腰掛けた。
ミネルヴァに背を向けたハウゼンは鎧(と言っても、篭手と胸当て程度の簡単な物だ)を外し、その下の動きやすく戦闘に適した服を脱いだ。下着姿になった己が肉体を見下ろして異常がないことを確認していると、不意に背後から視線を感じた。振り向けば案の定、ミネルヴァはハウゼンの身体を見つめていた。
「どうした?」
「えっと……」言い方に迷ってから、ミネルヴァは言う。「凄い、と思って」
凄い、というミネルヴァの言葉が何を指しているのかを理解するのに少しの時間を要したが、すぐにハウゼンは自分の身体を指しているのだと気が付いた。
確かにハウゼンのように隆々とした身体は、ミネルヴァにとっては新鮮なものだろう。鍛え上げられた全身はミネルヴァの細く柔らかそうな身体とは正反対で、そうでなくとも美しい。
「普段から鍛えているからな」
「ハウゼンは強いの?」
「難しい質問だが、単純な戦いであればと答えておこう」
「誰だって守れる?」
「いや」否定は早い。「……守れないものもある」
ハウゼンの脳裏には先ほどと同じ光景――庭の木に吊るされたベネディクタがあった。どうすれば彼女を守り通せたのか、それが今でも分からない。
手早く着替えを終え、ハウゼンはミネルヴァの求めた通りにミネルヴァのベッドに寝転び、ミネルヴァを迎え入れた。ベッドはミネルヴァほどの体躯の人間には大きすぎるものだったが、それが幸いしてハウゼンは巨躯を曲げずとも寝ることが出来た。
身体を横たえさせ、ハウゼンはベッドの中でミネルヴァと向き合った。ミネルヴァの顔にかかっていた一房の髪を払いのけ、その白い面がよく見えるようにする。ミネルヴァの細い指は布団の中でハウゼンの手を探して蠢き、見付けると指を絡めた。手から伝わるハウゼンの体温が心地良いのか、ミネルヴァは口元を緩めて目を閉ざした。まだ眠るわけではないのか、寝息は聞こえない。
目を閉じ動かないミネルヴァの身体を、ハウゼンは包むように抱き寄せる。温かく柔らかな身体から香る、この年頃の少女に特有の体臭。ミネルヴァに痛みを与えないように注意しながらハウゼンはミネルヴァを抱く腕に力を込め、囁きかける。
「もう一度、守らせてくれ」低い声が部屋に響く。「君を二度と“あんな目”には遭わせない。絶対に、“あんな最期”は、迎えさせない。私が、ずっと守る」
あんな目――無能と謗られ、愛されることのない空虚などは。そして絶望の中、自ら命を棄てるような最期などは。
もう二度と。
「ん……ハウゼン?」
眠くなってきたのか、ハウゼンを呼ぶミネルヴァの声は輪郭線が曖昧だった。薄く開かれた瞳もどこを見ているのか判然としないものだったが――続く言葉は、ハウゼンの耳には鮮やかなものだった。
「私、“あんな目”も、“あんな最期”も……知らない、わ……」
もう二度と――もう二度と?
暗闇の中、ハウゼンは目を凝らして腕の中で眠る少女を見る。緑色の髪と目、幼くも整った細い面、小さく脆い手――それら全てが、少女がミネルヴァ・フェジテであることの証明だった。
それら全てが、少女がベネディクタでないことを告げている。
「……私は」
かつてのハウゼンの主人は、自殺を選んだ。
何よりも求めていた両親からの愛を得られず、世界を去った主人がいた。誰よりも傍にハウゼンがいながら、守りきることの出来なかった主人がいた。守りきれなかった彼女は満たされないままで悔やみながら死に、もうハウゼンの隣にはいない。これからハウゼンが守るべき彼女は、ベネディクタの代わりでは、決してない。
だというのに――比べて、探していた。両親を喪い傷付き嘆くミネルヴァの姿がベネディクタと似ていたから。ミネルヴァの傍で彼女を励ますことでベネディクタを救った気持ちになり、もう救われることのないほどに終わってしまったベネディクタを救う方法を、探ってしまっていた。
「……利用しようとしていたのか。ミネルヴァを、自己満足の道具として」
安らかな寝息を立てる彼女を、新たな主人を、ミネルヴァをハウゼンは抱き締める。それはミネルヴァを何かから守り包み込む様子とはかけ離れていて――幼い子供が、怯えてぬいぐるみにすがりつく様子とはよく似ていた。
「ベネディクタ様が死んでなお永らえる私は、他のマスターに仕えながらもベネディクタ様に一番の忠誠を誓っていたと言うのか。私は……他のマスターを、ずっと、裏切っていたのか。これからもずっと、裏切るつもりで……いたのか」
フェジテセイヴァーとして存在するはずの自分が、歴代女王を守ると誓いを立てた自分が、その実それら全てを裏切っていた――それは、ハウゼンにとって何よりも恐ろしい事実だった。
そっと、ハウゼンはミネルヴァを抱く腕を外してベッドから出る。ミネルヴァに毛布を掛け直すついでに彼女の顔を覗き込むが、柔らかなベッドに埋もれるミネルヴァはぐっすりと眠り込んでいた。彼女を起こしていないことに安堵し、ハウゼンは寝間着から普段着に着替え直し、部屋を出ることにした。
女王ミネルヴァに仕える身の者として、主を抱いて眠ることなどあってはならないことなのだから。
「……お休みなさいませ、ミネルヴァ様」
言葉を残し、ハウゼンは主の寝室を去る。
無人の廊下と寝室で、二人はどこまでも孤独だった。

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