るーむ四季

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十字の椅子


彼、フリッツ・アンスバッハの最期は決して上等なものではなかった。
三十路に差し掛かってすぐとは思えないほど、フリッツの心身は摩耗していた。水色の細い髪は白くぱさつき、目の下にクマを広げる皮膚は荒れている上に体には数えきれないほどの傷があった。
全て、私が与えた傷だ。
数分前のことのように思えるフリッツの死は、その実数日前のこと。葬儀会場に来てみて驚いたのは、思ったよりも多くの人がフリッツの死を悼んでいることだ。かつて私と共に世界を救った七名の姿もあり、フリッツは私が思っていた以上に皆に慕われていたことを感じた。
「運が悪かったのさ」
私を含めた八名は葬儀会場の一室に集まり、簡単な近況報告をし合った。その後、協力者の一人が呟きを漏らす。「生まれつきの病気以外で死ぬのなんて運の悪さが原因さ。フリッツの運の悪さは恨めても、他の何かを恨むのはお門違いだよ」
何かに宛てたかのような慰めの言葉が終わると、静寂に戻った。私は先ほど新たに刻んだリストカットの痕から滲む血を指先で弄びながら、そっと呟いてみた。
「――そして、総ては遅過ぎた」
端的に表現すれば、そういうことだ。
フリッツはプライベートを投げ打って私のケアに当たっていた。私の為にフリッツは多くのものを犠牲にしたし、その中にはフリッツの睡眠や食事の時間といった、フリッツが健康に生きるために不可欠なものも含まれていた。フリッツは文字通り、命を削って私と向き合っていた。
でも、間に合わなかった。私の心が救われるより、フリッツの命の最後の一欠片が削りきられる方が早かった。フリッツが私に捧げた一切は、無駄なものとして失われた。
「……」
部屋は、相変わらず沈黙が支配している。私の言葉に応える人は誰もいない。黒装束に身を包んだ七人を眺めていると、私はふとフリッツの声を、生の素晴らしさを説くやつれきった掠れ声を思い出した。色が薄く乾いた、死体のような唇は、何度も生きるべきだと私に告げた。
もちろん、今となっては失われたもの。



葬儀を終えて帰り支度をしていると背後から呼ばれ、振り向くと見知らぬ老いた女性がいた。
「何か」
「……フリッツの、母です」
フリッツに母親がいないことは知っていた。出会うことなどないと思い込んでいたその女性の登場は私にとって意外なことで、私はしばし呆けたように固まってしまった。
「息子が、お世話になったようで……ありがとうございました」
それだけ言って、赤い目をした女性は去った。
小さくなっていく背中を見送りながら、私はフリッツと彼女の類似点を探した。穏やかで優しい瞳がよく似ているような気がした――でも、私の記憶の中のフリッツはそんな眼はしていなかった。クマに縁取られた淀んだ眼差しばかりが浮かんで、昔の、出会った頃のことが思い出せない。
私は女性の眼差しを回顧する。ありがとうございました、と彼女は言った。フリッツと同じ色をした視線は、しかし私に感謝などしていなかった。あの視線に含まれた感情は、息子を殺したも同然の私に対する、怒り、だろうか。
考える私とは無関係に周囲は動く。コツ、とこちらへ向かう足音と、私を呼ぶ声があった。見れば無感動な金の双眸が、かつてと変わらない若々しさのままで立っている。声をかけたきり何も話さない彼女をじっと見つめていると、彼女は喪服に包まれた腕をこちらに差し出した。
「女王直々に食事に招待された。他の人は城に移動した」
来い、と言っているのか。食欲はないが、そんなことよりも私は彼女の腕に目を惹かれた。白く、傷のない腕。私の腕ともフリッツの腕とも違う、綺麗な腕。
フリッツの腕は、私の腕と同じくらい、いや、それ以上にボロボロになっていた。死の衝動に駆られた私は自傷しようと暴れ、押さえつけるフリッツに刃物を向け、引っ掻き、噛みついた。爪を剥いだ時もあったし、指の骨を折りすらした。戦いとは無縁の傷のないフリッツの体を私は侵食し、穢した。
フリッツの体に初めて傷をつけた時のことを回想する。フリッツがカッターを持つ私の手を取り押さえたから、カッターは私の指の隙間から床へと滑り落ちた。滑ったカッターは私の掌の人差し指と親指を分断するように線を引いた。溢れた血に驚くフリッツに苛立ちを覚えて、私は私の手を押さえるフリッツの手に歯を立てたのだ。
痛みにフリッツが顔をしかめたのは一秒ほどのことで、フリッツは私を怒りもせず、私の歯が食い込むのをただ見つめていた。
――良いよ、僕のことなら、幾らでも傷つけていい。
フリッツの声には悲しみや諦めが滲んでいたけど、それ以上に。
――だから、自分のことはもう傷つけないで欲しい。君の綺麗な体を、僕に守らせて欲しい。
どこまでも、底無しに、優しかった。
「聞こえてる?」
想起を中断させたのは、感情を伴わない声だった。彼女の白く冷たい手は規則的に傷の刻まれた私の手首を握っている。じくじくと傷が痛みを訴えるが、目の前の彼女にとってはきっとどうでも良いことなんだろう。
私は彼女の手を引っ張り返して掲げ持ち、喪服の袖を押し上げ、肘から下の白い肉に向かって口を開いた。
顔に軽い衝撃、次いでガチ、と歯と歯がぶつかる間抜けな音が口内に響いた。噛み損ねた歯が唇に当たってしまっていたらしく、下唇に深い穴が開き、夥しい血が流れ出す。彼女の腕に傷はなく、私が血を流すことに何の感想も抱いていないような顔でこちらを見ている。
「何をしている」
問いかける視線は冷ややかだ。私の頬をはたいたことに対して、申し訳ないだとかいう感情は持ち合わせていないらしい。先に手を出そうとした私に手を出すことにためらう理由は、確かに、ない。
「先に城へ行く。時間になったら食事をするから、来たければ血を処理して城まで来て」
淡々と述べて、彼女は去った。
葬儀会場には私だけがいる。溜息をついても、何か呟いてみても、爪で新たに傷を刻んでも、誰も私に応えない。フリッツだけが、私に応えてくれていた。フリッツ亡き今、私が寄りかかり、休む場所はもうどこにもない。
フリッツ、とそっと囁く。その声は、何かに似て掠れていた。
「フリッツ。愛していたわ」
もちろん、そんなのは嘘だった。

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