るーむ四季

るーむ四季

プラシーボ


自分の物ではない家具が暗い部屋の中で黒々とした存在感を放っていた。闇に慣れてもそれは影にしか見えず、ヴィルジニーには巨大な獣のようにすら感じられる。獣に見下ろされているみたいだと一度思ってしまうとそうとしか思えない。気のせいだとは分かっていてもその視線はあまりにも不愉快で、ヴィルジニーは部屋を出た。
 廊下に明かりはない。経費削減のために夜間は消灯するのだとフョードルから聞いた。そのフョードルが誰から聞いた話かはヴィルジニーには関係ない。
 あてもなく歩いていると、給湯室に明かりが灯っているのが見えた。このオーグにいる人間のうち、こんな時間まで起きていそうな人間が誰かを予想することは難しい。誰でも構わないけど、とヴィルジニーが覗くと、そこにいたのはヴェーネだった。
「何か飲む?」
 足音でも聞こえていたのか、ヴェーネに驚いた様子はない。「そうね、何か」とヴィルジニーが言うとヴェーネは軽く顎を引き、「待ってて」と呟く。
 ロビーのソファに腰掛け電気を点けると、途端に辺りに光が満ちた。闇に慣れた目には眩しく目を閉じていると、「眠れないの?」とヴェーネの声が飛んできた。「ヴェーネも?」と訊き返すと僅かな沈黙の後、「いつものことよ」と返事があった。
「私は眠らないわ。眠ったってつまらない夢を見るだけよ」
 その声の冷たさにヴィルジニーは何の感想も抱かない。傍らに落ちているブランケットを肩に掛けながら「眠った方が良い」と忠告したが、それは心からヴェーネの身を案じた言葉ではなかった。
「戦闘に支障が出るかもしれないし、リーダーを三度、あるいはセラフィックブルーを四度――オリジナルヴェーネを入れるなら五度か――も亡くすなんてことになったら、士気はかなり下がる」
「……分かってるわ」
 そんな会話のすぐ後に、ヴェーネはマグカップを二つ持ってロビーに現れた。どちらも中身は同じらしく、どちらでも好きな方を、と言う代わりにどちらの取っ手もヴィルジニーの方へ向けた。差し出されたヴィルジニーは利き手の方のカップを手にし、湯気と共に立ちのぼる独特な香りを嗅いだ。
「安眠効果があるのよ」
 説明というより呟きに近い声。一口飲めば苦味と酸味が広がるそれは、言われてみればヴィルジニーをどこか安らかな気持ちにしていた。ヴェーネもカップに口をつけながら、瞑想でもするように両目を閉じている。
 会話は必要なかった。暗い廊下の中でここだけ人工の光のあるロビーに座ってヴェーネと共に温かいものを飲んでいるという状況はヴィルジニーにとって現実味がなく、夢の中のようでもあった。
 空になったカップをテーブルに置くとヴィルジニーはソファの背に上体を預け、もしかして、と口を開いた。ヴェーネはカップの中身を干し、まだ温もりがあるのだろうそれを両手で包みながら、ヴィルジニーの言葉の続きを待った。
「これに安眠効果って言ったけど……。……」
「ヴィルジニー?」
「……何でもない」
 訊いても仕方がないし、何より言葉がまとまらない。怪訝そうにこちらを見ているヴェーネに何でもないともう一度言って、ヴィルジニーは静かに目を閉じた。今ならうたた寝くらいは出来そうだった。
 しんとした沈黙の中、ヴェーネは空になった二つのカップを持って立ち上がった。「まだ欲しい?」とヴィルジニーに訊くが、返事はない。ヴェーネは給湯室へと向かい、再度湯を沸かした。
 ヴィルジニーの分のカップを洗い終える頃、湯が沸いた。粉末のコーヒーをカップに入れてかき混ぜながらロビーへ行くと、完全にヴィルジニーは寝入ってしまっていた。姿勢良く座ったまま眠っているが、表情は穏やかで、戦闘に身をやつす者とはとても思えない。
 肩からずり落ちているブランケットを掛け直してやると、ヴェーネはふと笑みを漏らした。まともなコーヒーに安眠効果があるのは事実だが、こんなインスタントコーヒーに安眠効果などない。むしろ目が冴えてしまうくらいと以前ジークベルトは講釈を垂れていたが――ヴィルジニーにとってはそんなことはなかったらしい。
 あるいは「安眠効果がある」なんてヴェーネが嘘をついたから眠ったのかもしれない。だとしたら随分と単純なものね、とまた微笑み、ヴェーネはヴィルジニーの向かいに座ってコーヒーをすすった。
 彼女の寝顔を見ながら飲むコーヒーは、少しはマシな味がした。

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