るーむ四季

Father's day


ジークベルト・アンスバッハにとって“父の日”とは忘れて久しいイベントだった。
息子のフリッツとは疎遠だし、ヴェーネを娘と呼ぶことはあるが厳密には彼の娘ではない。そもそも、感謝の意などという何の役にも立たないものを、ジークベルトは求めてなどいなかった。
ジークベルトが自宅へ戻ったのは、日付が変わる数十分前のことだった。無人のはずのリビングの電気を点けると少年――フリッツの影が浮かび上がったので、ジークベルトは意外そうに声を上げた。食事を終えるとフリッツは部屋にこもってしまうし、そうでなくてもジークベルトと顔を合わせないように彼なりに生活時間を調整しているようだった。こうして顔を合わせるのは久しいことだったし、「父さん」とフリッツが声をかけたことは、ジークベルトにとって想定外のことだった。
「珍しいな、お前が私に声をかけるとは」
「別に、僕だってあなたと話したいわけじゃありません」
フリッツの表情は硬く、ジークベルトも特に何の表情を浮かべるでもない。しかし、そのまま私室へと戻るには少し気になることがあったので、ジークベルトはフリッツに訊いた。
「それは何だ?」
リビングのテーブルの上のそれ――可憐にして豪奢な白薔薇の花束を顎でしゃくると、フリッツは「違いますよ」と牽制するように言った。
「確かにあと一時間くらいで父の日になりはしますし、父の日には薔薇を贈るのが慣習だということも知っています。でも……別に、これはあなたへ宛てたものではありません」
「父の日?」
言われてジークベルトは日付を確認したが、もう眼前へと迫った明日が父の日であるかどうかはよく分からなかった。特に必要のない情報はジークベルトからは抜け落ちていたが、同僚の一人が「明日は父の日だから休みを取る」と言っていたことを思い出し、それでようやく今日が父の日であることを知った。
「なるほど、父の日には薔薇を贈るのか。永劫使うことのない知識だろうが、得た以上は礼でも言っておこうか」
「……お礼なんていいから、これ、受け取ってください」
フリッツは花束をジークベルトに差し出したが、ジークベルトは怪訝な顔をしたまま受け取ろうとはしなかった。
「矛盾してるな。私へのものではないというのに、私が受け取ると?」
「あなたへのものではありません。……ただ、僕はヴェーネにこれをと思って。でも、ヴェーネに薔薇を贈ろうと思ったのも今日のことだったし、荷物を送るのにはタイムラグがあるかもしれないから……明日、確実にヴェーネの手に届くためには、これしかないんです」
「なるほど。そういうことならば受け取っておこう。明朝、確かにヴェーネの元に届くようにな」
「それと……ヴェーネにと思って、チョコも買ったんです」
言ってフリッツが取り出したのは、世俗に疎く娯楽にもさして興味を示さないジークベルトであっても知っているような有名なブランドのチョコレートだった。これも誰かの伝聞だが、何の変哲もない一粒が数百円もするらしい。嗜好品に最高級のものをと思う気持ちはジークベルトにも分かるが、コーヒーならともかくこんな菓子にそれを求めるということは解せないものだった。
「それも渡せと?」
「……そう思ったんですけど、これ、ホワイトチョコで。ヴェーネはホワイトチョコは嫌いかもしれないし――もしかしたら好きかもしれないけど、そんな話はしたことがないし――だから、もしホワイトチョコを受け取ってヴェーネが嫌な思いをするのは嫌で、でも僕が食べちゃうのも嫌で」
こいつにしては難しいことを言う、とジークベルトは眉をひそめた。ジークベルト自身、ヴェーネがホワイトチョコを好きかどうかは知らない。しかし、人並み程度に甘いものは好きだし、他でもないフリッツからのプレゼントとなれば多少苦手でもヴェーネは喜んで受け取るだろう。フリッツがうじうじと悩む意味はないのだ。
「フリッツ――」
ジークベルトはその旨をフリッツに伝えようとしたが、やめた。どうでもいいような些末なことに振り回され呻吟するフリッツの姿はあまりにも愚鈍で彼を苛立たせるものだったが、どこか愉快でもあったからだ。
「――何が言いたい?」
「……ですから、これはヴェーネに渡すわけにはいかないし、僕だけが食べるわけにはいかないけど、誰かが食べるべきだと思うんです。でももう夜中ですから、今から友達の家に行って一緒に食べるのも非常識ですし、気になって寝付けなくなるのは嫌だから今日中に消費はしたいと思ってるんです」
「分かり切っていることをだらだらと話すのは悪いことだな。それで、お前は結局私に何を求めている? 相談に乗って欲しいとか愚痴を聞いて欲しいというのなら、私はもう行くが」
「だから! ……これ、今夜中に食べなきゃいけないんです」
ようやくジークベルトにもフリッツの意図が見えてきた。今夜中にチョコレートは食べなければならない。外出して誰かを訪ねることは出来ない。フリッツ“だけ”で食べることはしたくない。この部屋には、ジークベルトとフリッツだけがいる。
「一緒に食べないかという拙い誘い……そう解釈してもいいのだな?」
「…………ええ、まあ」
フリッツの表情はどこか納得のいっていないような顔だったが、フリッツの意図とずれたことを言ってはいないという確信がジークベルトにはあった。ジークベルトが「お前は子供か?」と問うと、フリッツはきょとんとした表情をして、すぐに「ブラックコーヒーが飲めるくらいには」と返してキッチンへと向かった。
「じきに父の日です。あなたを敬う気はありませんが、“偶然”父の日にあなたと同席することになったんですから、コーヒーは僕に淹れさせて下さい」 「若造に私の厳選したあのコーヒーが上手く淹れられるとは思えないがな」
皮肉には応えず、フリッツはキッチンへと姿を消した。

「まずい」
即答され、フリッツは衝撃を隠せなかった。
「あの豆は上等なものだ。それをこんなにまずく淹れることが出来るとは意外すぎる。どんな魔法を使ったのか知りたいくらいだな」
「……そんなにまずくないと思いますけど」
「どうせ安いコーヒーでも飲んで味覚が狂ったのだろう。今日は我慢しておくが、二度と私にこんなまずいコーヒーを出すな」
折角淹れたというのに感謝の言葉も何もなしに言われ、フリッツはむっつりとチョコレートを口に運んだ。甘ったるさとミルクの風味はジークベルトにとっても美味だったようで、コーヒーはほとんど飲まずにチョコレートにばかり手を伸ばしていた。
「そういえば、このチョコも白薔薇の形か」
何個目かのチョコレートをつまんでジークベルトが言うと、フリッツは「今更ですね」と呆れて返した。
「父の日フェア、なんだそうです」
「ほう」
会話はそれ以上続かなかった。
箱の中のチョコレートが空になる時、フリッツのコーヒーは残りがあと一割といったところだったが、ジークベルトは八割以上も残していた。淹れるのが下手だったというのはコーヒー好きの彼にとって許されざることかもしれないが、それでも気を遣ってもう少し飲んでくれれば良かったのに、と腹立たしく思いながらチョコレートの空箱を捨て、ジークベルトと自分のカップをキッチンへ運ぼうとした時、「待て」とジークベルトは制し、カップの中のコーヒーを飲み干し、改めて「まずい」と言ってから空のカップをキッチンへと運んだ。
「来い、フリッツ」
そんなジークベルトの行動を見て呆然としていたフリッツは、呼ばれて慌ててキッチンへ行った。ジークベルトは二つのカップを水で簡単に洗うと、腰に手を当て、「練習だ」と言い放った。
「え、それは」
「あんなまずいコーヒーを淹れる息子など私は欲しくない。私の息子であり続けるなら、まずはコーヒーの淹れ方くらい学んでおけ」
「……別に僕はあなたの息子として認められたいわけでもないんですけどね」
少しむくれてフリッツは言い、しかしジークベルトからは見えない方の頬で微笑んだ。ジークベルトもそれには気付いていたが、何も言わず、コーヒーを淹れる練習はフリッツが眠くなるまでの二時間、続いた。



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